新年最初の「お江戸カフェ(歴史カフェ)」は、前回と同じく上村さんにお願いして歴史講演「明智光秀伝承・~泉州、南九州での明智光秀伝承を追って~」。

 上村さん曰く前回は明治期初期、今回は戦国時代末期と言う事で時代を遡って行く講演会だそうです。

 今回の「明智光秀伝承・~泉州、南九州での明智光秀伝承を追って~」は、山崎の合戦以降の戦後処理の戦乱で命を落とした光秀の第一子・明智光慶と明智光秀自身の生存説を追って、鹿児島県大隅と泉州各地に残る「伝承」を一つ一つ拾い出し、現地に赴き聞き取りなどを行い調査検証して行くと云う時間と手間の掛かる手法での調査研究の一部で、上村さんのライフワークと言っても良いんじゃないでしょうか。

 内容としては、光慶に関しては大隅に逃れた後子孫を自負する柳別府家の伝承、光秀に付いては泉州の縁者を頼って逃れた後同地寺院の僧侶と成ったという伝承ですが、上村さんが講演中言われた様にあくまでも「伝承」で有り、恐らく山崎の合戦以降縁者の間で密かに伝えられたと思われるお話しで、具体的な検証などは不要と思われ、只々お聞きして記録して置くと言う事の様です。

 光秀の生存説に付いては、吉田兼見の日記「兼見卿記」に依ると小栗栖で光秀の首級が見つかり首実検の後、本能寺の焼け跡で晒され、首級と胴体を繋ぎ同じ斎藤利光の遺体と並べて粟田口で磔・晒されたとの記載が有り、首級だけは蹴上辺りに埋められ首塚が置かれ、その後少し西の現在首塚の存在する白川沿いに移されていて、私は2020年2月にお詣りしてきました。 

 処でその「光秀の首級」ですが、光秀股肱の忠臣・溝尾茂朝が介錯の後近くの藪に隠したと云う事ですが、股肱の忠臣・溝尾茂朝が隠したにしては間を置かず余りにも簡単に発見されていて、しかもその首級は皮を剝がされていて判別出来無かったという記録も有り、溝尾茂朝が光秀の逃亡を助けるためワザと見つかり易く隠した可能性も考えられて、光秀の負傷程度によればその後の生存説もあながち捨て切れないと私は首級の真贋共々以前から思ってます。


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主催者ご挨拶。
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カタリスト自己紹介など。
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参考資料を手に上村氏熱弁中。
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当日テーブルオンした、上村氏多数持参本を含む各資料の数々。
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